同世代作家インタビュー Vol.1|池田泰輔 氏|竹芸家

記念すべき第一回目は、東京を代表する同世代作家で、ご自身も茶道を習われており、青年部でも活動されていらっしゃる、竹芸家の池田泰輔(いけだ たいすけ)氏にお話をお聞きしました。

プロフィール

氏名:池田 泰輔 氏

職業:竹芸家・籠師

池田瓢阿家の後継として、武蔵野美術大学造形学部日本画学科をご卒業後、御父上である三代・池田瓢阿氏に師事され、竹に関する茶道具の創作に勤しまれていらっしゃいます。また、竹の茶道具を手づくりで楽しめる竹芸教室「竹樂会」の講師としてもご活躍されています。

池田瓢阿家は、泰輔氏の曽祖父でいらっしゃる初代が、近代の大茶人・益田鈍翁(1848~1938)の依頼で、小堀遠州所持の「瓢籠」を巧みに写し、「瓢阿」の号を賜わったことによりはじまります。その後、二代も鈍翁より薫陶を受け、戦後はいち早く竹芸教室を開き、多くの茶の湯愛好家に籠づくりの楽しさを伝えていらっしゃいました。泰輔氏も竹芸家・籠師としてご活躍の一方で、裏千家茶道の道に入り、日々修練を重ね、青年部にも属し、積極的に活動しておられます。

そのほか、月刊茶道誌『淡交』や『新版茶花大事典』(淡交社)などにおいて、茶道具のイラストをご担当されるなど、多方面でご活躍していらっしゃいます。

HP:http://www.ikedahyoa.com/index.html
Instagram:https://www.instagram.com/kagosyou.taisuke.ikeda/

きっかけ

(インタビュアー)今日はお時間を頂きましてありがとうございます。まずは、なぜこの道に進もうと思われたのか、家業を継ごうと思ったきっかけは何だったのかをお聞かせください。

池田家は父で三代目でございまして、子供の頃から、父、そして祖父の背中をみて育ちました。自分が長男だったこともあり、当たり前の様に、自分も同じことをするものだと思っておりました。自然と自分がやるものだと思って育ったものですから、他の道を探すこともなく、ずっと父の仕事をみて、勉強も進めて参りました。
何代も家が続いておりますと、家を大きくするとか、時々反発や、違うことをやってみたいといった葛藤とかが普通はあると思うのですが、自分は思い込みが強いのでしょうか、絶対にこれをやるんだという風に育ってきたものですから、自分の中で確固となるものがございまして、自然とその道に入っておりました。

また、茶道(お茶)が自分の性分にあっており、お茶の世界に根ざした仕事が好きというのもございます。お茶のお稽古を始めたのは大学の時でして、うちはお茶道具を作るお仕事であり、そのためにもお茶の世界には触れているべきで、そうしないときちんとしたものは作れないと思っております。
他の道は全く考えず、この道で行くと決めておりましたので、そのために何をやるべきかを考えて、準備しておりました。進路に対して、親などからのプレッシャーは全くなく、子供の時は仕事をやるかどうかは全く話題になりませんでした。仕事にするかは別にして、一応手ほどきは受けておりました。実際に進路を決める際には、不安定な仕事でもありますので、親から反対されたこともございました。企業に勤めて働くとか、公務員とかに比べますと、どうしても不安定なお仕事ですので、親心もあったかと思います。親からの反対もあったのですが、私自身に「絶対やる」という強い意志がございましたので、この道に進みました。

自分が継ぐとなり、当代の父も、やはり後継がいるといないとでは、仕事の仕方が変わってきており、色々と準備をしたり、続けるためにし続けなければならない努力をされている様に感じ、そういう点で親への負担は増えたのかなと感じております。名前を継ぐ、後に継ぐタイミングと言いますのは、継ぐ方に実力が備わっているかどうかもございますが、継がせる方の準備が整うというのも必要となります。制作においては、父との関わりは、同じものを目指すアーティストとして、師匠と弟子という関係です。

思い・志

(インタビュアー)作品を作る際に、何を心がけているのでしょうか。

やはりメインとしてお茶の道具を作っておりますので、一番大切なのはお茶室の中に置いてどうか、他の道具との取り合わせがどうかを重視しております。
ですので、籠だけが作意が出過ぎてしまって変に目立ってしまっても、他の道具との取り合わせが難しいということになってしまいます。お茶道具として存在はしつつ、そこに自分の作品として、作者の主張をどう入れていくか、お茶道具として矛盾しない程度に、調和しながら主張をしていくことを考えています。大事にしまわれる道具というよりは、より頻繁に使ってもらえる道具の方がよく、最終的な表現者は席主ですので、自分自身の主張は常に存在していますが、お道具として使って欲しいという思いと重なっています。初代も益田鈍翁の道具をつくるところから始まっておりますので、道具として使えてこそです。そのために、お茶に触れ続けています。ブランクがあってはいけないので、今後も続けていきたいと思っております。

(インタビュアー)作意とはどのように滲み出るものなのでしょうか。

同じテーマの籠でも、資材の選び方、整え方1つで変わってきます。バランスの取り方、大きさ、同じ主材のものをつかっても、その時々で表情は変わってきます。それらを通じて、作意が滲み出てくる感じです。

(インタビュアー)ご自身の作品にはどの様な特徴がございますか。各代ごとの違いなど感じますか。

祖父と父の作品も比べると全然違います。祖父の作品はどちらかというと野趣があって、一見暴れているようだけれど、ちゃんと収まっているという絶妙なバランスを持っています。晩年になると、上手い力の抜け方があり、そこら辺に面白みがあります。父は70歳になったばかりですので、まだまだ変化をするのですが、祖父に対して言えば、繊細な雰囲気があります。
私自身のことは表現しにくいですが、まだ若いので、まだ海の物とも山の物とも言えないかなと思っています。自分で心がけているのは、できるだけ清潔感を持つことです。崩そうと思うと崩すこと自体は簡単ですけれども、お茶らしくまとめるのが難しいです。むやみやたらに新しいことや自由なことをやれば、それが良いかというと違ったりします。そういったものを自分の作品にうまく反映していくことは難しく、やはり経験を積んでいかないといけません。作意は自然に現れるものなので、自然に現れてきたものを、見ていただく方が気に入って、お使いいただければ嬉しいという感じです。

(インタビュアー)素材の竹について、気候変動の影響などを感じることはございますか。

気候変動の影響はまだそこまでは現れてきてはいないと思うのですが、使える竹材を確保するのが難しくなってきていると感じます。いつも素材は京都の竹屋さんから仕入れていますが、技術と手間がかかるお仕事でして、伝統と技術が要ります。ただの竹やぶは存在しますが、竹林として管理されていないと、竹材としては使えません。今は竹屋さん自体が減ってきており、そうするといい竹材が減っていきます。気候が大切なので他の国では難しく、冬は寒いけれど寒すぎてもだめで、温暖で湿潤という観点では、やはり京都の竹がいいです。
仕事で煤竹を多用しますが、煤竹は古い古民家から出るものですが、これからは古民家の数も少なくなっています。煤竹は200年から300年くらいの竹を使いますので、今の竹を燻してもできません。古い古民家が取り壊しになると、竹屋ネットワークですぐ納品先が決まるのですが、今後は調達が難しくなるでしょう。煤竹に関しては、私の代で無くなる可能性もあります。
竹産業を守るために、竹文化を繋いで、また一定の購買層がいないと進まないので、お茶道具でなかったとしても竹の製品を人々の意識に残させて、そういうものが存在しているという意識を持っていただき、産業として残していく必要があります。

ターニングポイント

(インタビュアー)自分の作品、人生を変えるきっかけ、出会いなどがあれば、教えてください。

大きな転換点ということはないんですけれども、自分の仕事をやる上での重要なポイントがいくつかあるとすれば、一つ目は美大に進んだことです。父から仕事を継ぐなら美大に入りなさいという指示がありまして、私は日本画を専攻しました。父は美大でデザインを勉強しておりましたので、父の作風もその影響があります。私も日本画を学ぶ中で、自分の中に残ったものが作風として表れているかなというのはあります。

二つ目は、茶道(お茶)との出会いです。父の紹介で戸田即日庵にお世話になっておりますが、お茶ありきの仕事をさせていただいておりますので、茶道を始めるのは必然でした。父も裏千家の鈴木宗保先生に学んでおりました。

そして最後は、青年部の皆様にお世話になっているということです。父も淡交会と青年部の皆様にお世話になっておりますし、自分自身も青年部にお世話になっており、父以上に関わっておりますので、仕事の上でも、またお茶の上でも、皆さんのお世話になっているというのは、本当に我が家の仕事の中でも非常に特徴的ですし、大きな可能性を見出せる点です。

めざすもの

(インタビュアー)何を人生の目標としているのか。そして、今後どの様なものを作っていきたいですか。

目標というか、また話が戻ってしまう様で申し訳ないのですが、やはりお茶人の方に気に入って使っていただけるものを作っていきたいと思っております。そういったところを伸ばしていきたいと言いますか、精進してゆきたいと思っております。

(インタビュアー)名前を継ぐということ、家として守りと、自分の作意といった攻めの、両方面のバランスについてはどの様にお考えでしょうか。

家の仕事に関していえば、大前提として基本は茶道具である、竹であるというところはぶれてはいけないと思っています。池田瓢阿家で特徴的なのは、名物籠というものを多く知っているというところがあると思います。
色々な茶人の方が所有しているもの、今は美術館に入ったり、個人所蔵になっていたり、人前にでない名物を、実際に拝見し知っているということは大事です。元々は、益田鈍翁の依頼で名物籠の写しを作らせていただいたのが始まりですから、これは瓢阿の名前がある限りは続けてゆきたいと思っております。

(インタビュアー)将来的には、茶道具の枠を越えた活動をお考えでしょうか。

今は具体的には考えておりません。自分なりの表現というものを、お茶道具としてではなく、自分の作品として表現するというのはやっておりますが、自分としては、そういった自分の作品で作ったものを、新しいお茶の道具にフィードバックさせていくためにやっていることであり、茶道具以外のものを作ろうと具体的に意識して現時点ではやっておりません。

青年部の皆に伝えたいこと

(インタビュアー)使い手として、またある時は鑑賞する者として、青年部のメンバーに期待することがあれば、お聞かせいただけますか。

どんどん作品を使って欲しいです。長く使って価値を出して欲しいと思っております。また、自分で作品を作ってみると、作品を見る目が全然変わってきますので、是非竹に触れてほしいと思います。もし、青年部の講演会や講習会でお役に立てることがあれば、ぜひお伺いさせていただきたいと思っております。

(インタビュアー)お茶人口を増やすにはどの様にすれば良いとお考えですか。

やたら門戸を広げれば良いものではないと思っています。ライトユーザーというよりも、ヘビーユーザーを増やさなくてはいけないと思っております。お茶の同志を増やしていくという意味では、視覚や文章、動画を使って、美意識で人を惹きつけるような活動なり制作なりを心がけないと難しい気がいたします。

美意識とは、人と人との関係も含んだ、広義の意味での美意識です。お茶に興味・関心を持ってもらうだけではなく、同じ価値観をもつ同志を増やしていかなくてはならないと思います。益田鈍翁の時代も、当時の権力者や財界の人の中で茶道を深く嗜む人が存在し、その人々に周囲が影響を受けて、茶道に深く関わるようになる方が多くいらっしゃいました。同じことをすれば良いということではないですが、また違った形を模索していかなくてはと思っております。

また、グローバル化が進む中で、日本人の美意識というものを、日本人は強く持っていき、守りでなく武器として、世界で活躍していかなくてはとも思います。人間としてより良い方向に、大きい話ですが、世界をどう導いていけるのかが、日本人が長い歴史で繋いできたものが必ずあり、そういったものの1つがお茶だと思うのです。それをどういう風に生かしていくかを考えていくことが、お茶を繋いでいくことになると考えております。

青年部向けの活動実績(一部抜粋)

取材を担当した広報メンバー